玉縄城は玉縄の城。鎌倉・大船・玉縄、玉縄歴史の会。

2024年8月公開講座『会津にもあった玉縄城と築城者 山ノ内氏』のレポートを掲載

 2024年8月4日(日)、福島県会津若松市より『会津古城研究会会長・石田明夫先生』に遠路お越しいただき、『会津にもあった玉縄城と築城者 山ノ内氏』についてご講演いただきました。

ポイント
会津守護として戦国期に奥州で勢力を誇った葦名氏は、横須賀の葦名城を拠点とした三浦一族。永享期には、三浦郡葦名郷の他に奥州・会津郡守護職を得ていた。
首藤刑部丞俊通(藤原氏)の後胤である経俊は、北鎌倉・山ノ内に住んで山ノ内氏と称していた。執権・北条泰時に従って奥州を攻めた際の軍功で、会津・金山の地を与えられた。(新編会津風土記)
戦国期には、山ノ内氏の手により金山に烏山城が築かれ、天文15年(1546年)に『玉縄城』と改名された。四家合全には、城の登城口が急峻だったため、縄の途中を玉にして登りやすくしたことが、その名の由来と書かれている。
会津の山ノ内一族は、天正6年(1578年)に会津・黒川城主の葦名氏へ下った(同郷の義か?)が、1589年の摺上原の戦いで葦名氏が伊達政宗に滅ぼされると、山ノ内一族は反伊達氏の立場を採った。しかし、玉縄城の山ノ内氏(川口氏)は伊達側に付き、中丸城(玉縄城の本城にあたる)の山ノ内氏勝を攻め滅ぼした。

講演後記
 石田先生も仰っていたが、結局のところ「鎌倉の玉縄城と会津の玉縄城の関係性は明確ではない」とのこと。しかし、今回の講演を拝聴して、会津へ移った北鎌倉の山ノ内氏の後胤が築いた城だけに無関係とは思えず、かつ玉縄城ではなくその本城ではあるものの最後の城主が山ノ内氏勝という点は、玉縄城最後の北条氏が氏勝公だっただけに深い所縁を感じた。
 なお、石田先生には、その他にも向羽黒山城や神指城など知られざる名城、会津の歴史や文化に関するお話をしていただいた。これこそ、お互いの玉縄城が繋いだ縁であり、今後も大事にしていくべき絆だと感じた。


<熱い語り口調の石田先生>

<石田先生の著書①>

<石田先生の著書②>

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