令和6年(2024年)3月3日(日)、当会定時総会終了の後、前会長・関根 肇と現会長・土田 真路による『~玉縄の心を次代へつなぐ~ 新・旧会長による玉縄対談』が行われました。
※関根前会長は、令和6年(2024年)12月に逝去されました。心よりご冥福をお祈りいたします。
ポイント
玉縄の小路を歩いて廻る6つのコース(関根考案)に沿い、関根自らが地名の由来などを解説し、所々で土田が質問を投げ掛けて対談は進んだ。
● コース1:路線バスの道に沿って
大谷戸 ⇒ 下寺 ⇒ 土腐(どふ)※1 ⇒ 番匠免(ばんしょうめん)※2 ⇒ 二軒屋 ⇒ 地蔵屋敷 ⇒ 玉の前※3 ⇒ 両台の端※4 ⇒ 相模陣・陣屋 ⇒ 的場 ⇒ 陣屋坂 ⇒ 円光寺曲輪 ⇒ ふくろもち※5 ⇒ くいちがい ⇒ 大手門 ⇒ 本所 ⇒ 諏訪壇(すわだん)※6 ⇒ 黄金井戸※7 ⇒ お花畑 |
※1:ドブ田と云い、泥が柔らかくて深い。場所によっては膝の上まで潜ってしまう場所もあった。
※2:建築に携わる職人集団の棟梁を番匠と云い、玉縄地区内に住んでいた番匠『五郎三郎』が年貢免除となった。
リンク(史跡巡り:玉縄番匠)
※3:玉縄四代城主・北条氏繁公の奥方『七曲殿』が茶の湯の水を汲んだ井戸を『玉の井』云い、その周辺はこう呼ばれていた。
リンク(史跡巡り:玉の井)
※4:七曲坂から焔硝蔵に延び、更に南方向に延びる尾根の先端が2つに割れた所。
※5:今は影も形もないが、袋小路のことを云った。
※6:場内守護神として諏訪神社を勧請した場内最高位の場所。リンク(史跡巡り:諏訪神社)
※7:諏訪壇の真下にあった井戸。黄金伝説があり、昭和50年代に発掘したが何も出ず。
● コース2:谷戸橋から
山王戸部 ⇒ 馬道 ⇒ 岡本耕地 ⇒ かえる園※1 ⇒ 八反目※2 ⇒ 大どんぶり※3 ⇒ 水道路 ⇒ 象の鼻※4 ⇒ 峯・峯の前・峯の下 |
※1:元の県立農事試験場内にあった食用蛙の養殖池。餌として輸入したアメリカザリガニを試験用稲田の害虫駆除用に放したところ、柏尾川の氾濫でザリガニはおろか、蛙も逃げてしまった。
リンク(史跡巡り:神奈川県立大船農事試験場)
リンク(史跡巡り:アメリカザリガニ発祥の地)
※2:昔の面積を表す単位で1町=10反=8,000坪の単位から算出すると、2,400坪ほどの広さがあった場所。
※3:東海道線の線路敷設工事のために、玉縄の土地からも土が掘られた。そのために大きな穴ができ、そこに水が溜まって池になった。
※4:現在の貞宗寺墓地から東南方向に延びる尾根が象の鼻のようだった。
● コース3:植谷戸から関谷まで
白坂 ⇒ 七騎谷戸※1 ⇒ 植谷戸 ⇒ 三枚田※2 ⇒ 感正寺谷戸 ⇒ 崩れ橋※3 ⇒ 山谷戸(やまげえと)⇒ 大街道 ⇒ 石原谷戸 ⇒ 寺屋敷 ⇒ 権現山 ⇒ 東正院 ⇒ 芹ヶ谷戸 ⇒ 鍛冶ヶ谷戸※4 ⇒ 栄区 |
※1:暗殺された源実朝の首を抱えた七人の騎馬武者が、秦野へ向かう途中に追手をやり過ごした谷あいの一郭。
リンク(史跡巡り:七騎谷戸『首を持った七人の侍』
リンク(史跡巡り:七騎谷戸の伝承
※2:諏訪神社前にあった畦道で3つに仕切られた田圃。
※3:玉縄トンネルの打越側にあった、いつも崩れそうな橋のあった所。
※4:横山長者が砂鉄から精錬して鉄を作っていた場所。
● コース4:小林寺跡から玉縄台方面
小林寺廃寺跡 ⇒ 大谷戸 ⇒ 谷戸畑 ⇒ ふんがけ坂※1 ⇒ お伊勢山 ⇒ 龍寶寺谷戸 ⇒ 古宮 ⇒ 山居※2 |
※1:栄光坂はあまりにも急だったので、踏ん張って歩けという意味と、百姓が肥桶をかついで登り降りする時、桶から肥がこぼれて身体にかかるほどの急坂だったという伝承もある。
※2:岡本・関谷・城廻の三村犬牙の地。三村の境なので、三境が山居となった。
● コース5:関谷インターから小雀境
海軍道路 ⇒ 洗馬谷戸※1 |
※1:昭和30年頃の玉縄城周辺調査の時、玉縄城の兵士が馬を洗った所ではないかと云われ、名前が付いたとされる。
● コース6:関谷上町から関谷原
寒司谷戸 ⇒ 堂の下 ⇒ 坂口 ⇒ 災難畑※1 ⇒ いっちょ畑※2 ⇒ 二枚橋 ⇒ 栗林・清兵衛山※3 |
※1:災難のいわれは不明。不幸なことがあったので、この畑に神を寄進して厄を落とそうとしたのだろうか。現在、住吉社がある。
※2:一町歩の広さを持つ畑。
※3:三井団地の殆どが清兵衛山だった。その一部に栗の大木があったが、東海道線の線路の枕木として伐採された。
講演後記
地名を通じて玉縄の歴史を学ぶ・・・これは地元を知り尽くした関根前会長ならではの企画だった。どの土地にも、それぞれ伝承があり、普段何気なく使っている地名に深い由来があることを改めて知ることができた。関根前会長も「村の年寄りから聞いた」とコメントした部分が多々あり、こうした伝承を次代へ引き継いでいく重要性を改めて実感した。これからは土田会長を中心に、 我々も次世代の担い手として、このような伝承を守り抜いていかなければならないだろう。
![]() 土田会長の問いに答える関根前会長 |