玉縄城は玉縄の城。鎌倉・大船・玉縄、玉縄歴史の会。

活動内容

活動内容:令和3年(2021年)

定例会・公開講座

開催日令和3年(2021年)12月5日(日)13:30~15:35
テーマ第280回公開講座:地域の古文書を読む~鎌倉郡今泉村の溜池について~
講 師浮田 定則 氏(当会会員) 
解説:平田 恵美 氏(鎌倉市中央図書館 近代史資料室、当会古文書の会講師)
会 場玉縄学習センター分室・第3集会室
参加者参加者:40名(会員28名、一般12名)
内 容 公開講座の開会にあたり、平田恵美氏が挨拶を行いました。平田氏は、例年12月に古文書の会で発表の機会をいただいていることに感謝し、今回は当会の会員である浮田定則氏が『散在ケ池』について、古文書を読み解きながら進めた研究成果を講演することを紹介しました。浮田氏は日本中世史を中心に意欲的に研究活動を行っており、今回の溜池に関しても、今泉村・岩瀬村・大船村に伝わる古文書を閲覧するため、中央図書館近代史資料室に通って研究を深めたとのことです。
 続いて、浮田定則氏が自己紹介を行いました。浮田氏は2001年に社会人となり、2011年に史料講読講座に参加して古文書に興味を持ちました。2013年に鎌倉へ移住し、2015年には鎌倉検定1級と京都検定2級に合格しました。2016年からはタウンニュースに『鎌倉のとっておき』というコラムを寄稿し、2018年には生涯学習インストラクター(古文書)1級に合格しました。2019年から地域の古文書を読み始め、2020年には『レキシノワ』を創刊しました。
 浮田氏は自身の研究活動について、古文書等の確かな記録を紐解き、当時の状況や背景、本質を追究する実証史学の立場で研究していると説明しました。現在は、地域の古文書を読み、歴史散策等を通じて歴史・文化・日本の風土に心を動かし、社会に役立てる歴史を探求しているとのこと。
 公開講座では、浮田氏が執筆した配付資料とプロジェクタ映像資料を駆使し、「鎌倉市今泉には大船・岩瀬の溜池を前身とする『散在ガ池森林公園』(通称:鎌倉湖)がある。なぜ隣村の灌漑用水池が今泉にあったのか?地域の古文書を読み解き、真相に迫る」という主題で講演を行いました。

散在ガ池(通称:鎌倉湖)

散在ガ池の案内板

散在ガ池の位置
(国土地理院地図を用いて作成)

浮田氏

平田先生

講演会場の様子
開催日令和3年(2021年)11月14日(日)13:30~15:40
テーマ第279回公開講座:玉縄城と本牧郷~小田原北条氏の進出と本牧の役割~
講 師相澤 竜次 氏(公益財団法人 横浜市ふるさと歴史財団 横浜市八聖殿郷土資料館 館長)
会 場玉縄学習センター分室・第3集会室
参加者38名(会員30名、一般8名)
内 容 公開講座の開会に先立ち、玉縄歴史の会の関根会長が講師の相澤氏を紹介しました。関根会長は「本日は、当会の公開講座では大変珍しいテーマで、興味深いお話を聞かせていただけます」と挨拶しました。
 続いて、相澤氏が自己紹介を兼ねて、館長として勤務する『横浜市八聖殿(はっせいでん)郷土資料館』について説明しました。「この博物館は昭和8年(1933年)に、熊本県出身の政治家・安達謙蔵の別荘として建てられました。安達氏は日本放送協会(NHK)や羽田空港の創設に携わり、渋沢栄一と共に近代日本の建設に功績がありました。また、『選挙の神様』と言われ、選挙参謀としても手腕を発揮した人物です」と述べました。
 講座の冒頭で、相澤氏は戦国時代がどのように始まったのか、戦国時代と呼ばれる乱世の時代に日本国内がどのような危機に見舞われていたのか、その背景にあった出来事を見直しながら解説されました。その中で、小田原北条氏がいつ、どこから現れ、どのようにして玉縄・本牧・三浦へと進出し、関東一円を制していったのか、また、所領拡張の中で拠点がどのように動いていったのかについても詳しく説明されました。さらに、小田原北条氏にとって本牧がどのような場所であったのか、秀吉軍による小田原攻めまでの期間を、関係する史料を読み解きながら講演されました。

相澤先生

講演会場の様子

橋本先生

講演会場の様子
開催日令和3年(2021年)9月5日(日)13:30~15:50
テーマ第277回公開講座:三浦義村と中世国家
講 師真鍋 淳哉 氏(青山学院大学 非常勤講師)
会 場玉縄学習センター・第4集会室
参加者69名(会員29名、一般40名)
内 容 講師は自身の専門分野を「日本中世史、特に戦国時代」と紹介し、三浦義村の研究について述べました。
 義村は従来の「北条義時と対立したマイナーな人物」というイメージとは異なり、実際には幕府の中心で活躍し、京都政界にも大きな影響を与えた重要な人物であることが分かりました。
 義村の生年は不明ですが、没年は延応元年(1239年)で、70代中頃と推測されています。彼は治承4年(1180年)から寿永元年(1182年)の間に元服し、奥州合戦に従軍しました。義村は三浦氏の中で辣腕を発揮し、幕府の体制や秩序を尊重し、北条義時との協調関係を維持しました。
 和田合戦では、義村は当初和田義盛に協力するも、最終的には北条義時に通報し、和田氏の滅亡に繋がりました。この行動は「肉親の情」よりも「累代の主君」を優先する姿勢を示しています。
 承久の乱では、義村は北条氏との協調関係を選択し、幕府の体制を守るために尽力しました。乱後の戦後処理でも重要な役割を果たし、幕府と朝廷の新体制を構築しました。
 義村の死後も、その影響力は大きく、幕府の再形成に大きな役割を果たしました。彼の存在は、単なる一御家人のレベルを超えたものであり、幕府・朝廷という中世権門における新体制を構築した重要な人物として評価されています。
 このように、三浦義村は幕府の体制や秩序を尊重し、北条氏との協調関係を維持しながら、三浦氏の隆盛をもたらした重要な歴史的役割を果たした人物です。

真鍋先生

講演会場の様子
開催日令和3年(2021年)8月1日(日)13:30~15:30
テーマ第276回公開講座:江の島の歴史(2)~江の島と後北条氏~
講 師伊藤 一美 氏(鎌倉考古学研究所 理事)
会 場玉縄学習センター分室・第3集会室
参加者23名(会員のみ)
内 容 この講座は「江の島の歴史」シリーズの第2回目で、「中世の江の島信仰」に続く内容であり、伊藤先生には、中世文書を読み解きながら、戦国・後北条氏時代の江の島の支配・保護関係や住民の意思について講演いただきました。また、玉縄北条氏を研究する玉縄歴史の会にとっても重要なテーマであり、江の島の歴史を理解する上で非常に有意義な内容となっています。
 講師は、江の島と玉縄・大船地域が地理的に切っても切れない関係にあることを強調し、今回は玉縄・大船地域を支配した後北条氏と江の島の関係について詳しく見ていくと述べました。
 前半の1時間では、伊勢宗瑞の出身や伊豆から相模への東進、永正9年(1512年)の玉縄要害の取りたて、武蔵進出の足場設置、鎌倉地区を足場に三浦半島の三浦同寸や房総里見氏への攻撃準備、そして死去するまでの生涯について説明しました。特に、宗瑞の出身や年齢については、現在の歴史学での確定説である備中伊勢盛定次男で伊勢新九郎盛時の発展した姿であり、64歳ではないかと述べました。
 宗瑞と江の島との関係では、宗瑞が伊豆から相模国へ出陣途中、江の島岩本坊からの禁制要請を受け、永正元年(1504年)9月6日に江の島に乱暴を停止する禁制を出しました。この禁制は特大の独特な花押の文書として有名で、伊勢宗瑞による相模国最初の文書です。講師は「大きな花押に意味が込められている」と述べ、宗瑞がこの時期に江の島あたりにも勢力を伸ばしていたことがうかがえると説明しました。

伊藤先生

講演会場の様子
開催日令和3年(2021年)7月4日(日)13:30~15:35
テーマ第275回公開講座:前方後円墳・長柄桜山古墳を考える
講 師柏木 善治 氏(公益財団法人 かながわ考古学財団理事 事務局次長)
会 場玉縄学習センター分室・第3集会室
参加者24名(会員のみ)
内 容 長柄桜山古墳群は、1999年に神奈川県逗子市桜山で発見され、2002年に国史跡に指定されました。特に注目すべきは、4世紀半ばから後半に築造された前期古墳であり、畿内政権の勢力拡大を示唆するものとして重要視されています。
 第1号墳は、墳長91.3m、前方部幅33.0m、後円部径52.4m、高さ7.8mで、円筒埴輪や壺型埴輪を備えています。これらの埴輪は現地で生産された可能性があり、九州地方と関東地方に多く見られる製品です。
 長柄桜山古墳は「海浜型前方後円墳」として定義され、各地域で最大級であり、交通の要衝に立地することが特徴です。同じ神奈川県内には、平塚の真土大塚山古墳や川崎市の加瀬白山古墳などがあり、これらの古墳からは三角縁神獣鏡が出土しています。
 全国の海浜型前方後円墳は、南は鹿児島県志布志湾の横瀬古墳から北は宮城県名取市の雷神山古墳まで約80基が分布しています。これらの古墳は、海上交通との関係が深く、被葬者が海の王者であったことを示唆しています。
 このように、長柄桜山古墳群は日本列島沿岸を航行する海の王者の象徴であり、古代の海上交通や地域間の交流を理解する上で非常に重要な遺跡です。

柏木先生

講演会場の様子
開催日令和3年(2021年)6月6日(日)13:30~14:40
テーマ第274回公開講座:玉縄の廃寺について
講 師関根 肇 氏(当会会長)
会 場玉縄学習センター・第1集会室
参加者24名(会員23名、一般1名)
内 容 『鎌倉廃寺事典』によると、玉縄地域には3つの廃寺が記録されています。その中で『小林寺(しょうりんじ)』は、『新編相模国風土記稿』を引用して、浄土宗で貞宗寺の末寺、開基は小林若狭とされています。しかし、小林若狭が真言宗『玉泉寺』の開基であることから、浄土宗と真言宗の二つの宗派の寺を建てたのか疑問を持っています。
 貞宗寺に保存されていた位牌には『正林寺(しょうりんじ)』と書かれており、『正林寺』は『少林寺』の向かいの山際にあったことが判明しました。別々にあった浄土宗『正林寺』と真言宗『小林寺』が廃寺になった後、『正林寺』の墓地の改葬で『小林寺』の墓地に合葬され、その墓地に浄土宗の回国僧『徳本』の碑が建てられていたため、『小林寺』が浄土宗の寺と間違われたと考えられます。その後、名称だけが残されたと推測されます。
 その他の廃寺については、状況の変化で遷座したり(本在寺、妙法寺)、武力に屈して廃寺となり他所に遷座したり(長慶寺)したとされています。

関根会長

講演会場の様子
開催日令和3年(2021年)5月9日(日)13:30~15:15
テーマ第273回公開講座:海を渡った鎌倉・玉縄のユリ~明治・大正期のユリ栽培と輸出、そして今~
講 師入江 真理子 氏(コソガイ・鎌倉子育てガイド、鎌倉玉縄ユリ・プロジェクト主宰)      
会 場玉縄学習センター・第4集会室
参加者44名(会員22名、一般22名)
内 容 明治時代の本に、県内のユリ根(ユリの球根)産地として、鎌倉郡玉縄村がまず挙げられている。鎌倉市内に伝わる農業日記には、明治中頃に玉縄村・十二所・大船で山ユリやテッポウユリの球根の山採りや栽培が始まった。大正初期に貿易商の副社長を務めた角田助太郎氏によって黒軸テッポウユリの栽培が行われた(山ユリは半日陰の斜面地では育つが、平地栽培には適さなかったので除外された)。ユリは連作を嫌うので、輪作をするために栽培地を戸塚、八王子、津久井、伊豆韮山などに移し土地も拡張して行った。横浜港から輸出されたが、輸出ではシルク、お茶の次に多く、Sサイズのテッポウユリの球根が現在の1万円ほどで取引された。第二次世界大戦を機にユリの値段は暴落して輸出は衰退した、その後、栽培技術は大船フラワーセンターに引き継がれた。大船観音様近くにある角田家の純和風住宅を、元はユリ御殿ともいわれた。
 日本ではどこでも見られる花だが、欧米の風土には馴染まず、殆ど育たなかった。欧米への日本ユリの紹介は江戸時代から始まり、球根の輸出は明治初めに始まった。日本のユリはイースター(復活祭)のころに咲く生花として使われ、イースターリリーとして親しまれている。最初に日本のユリをヨーロッパに持ち帰って紹介したのがシーボルトで、多種の植物も持ち帰ったが、長い船旅で多くが腐敗してしまった。わずかに残った球根の中でカノコユリやテッポウユリが咲き、評判になった(ヤマユリは土質が合わず咲かなかった)。現在ではバッキンガム宮殿、ウエストミンスター寺院にも日本のユリが植えられている。

講演会場の様子
開催日令和3年(2021年)4月4日(日)13:30~15:40
テーマ第272回公開講座:頼朝以前の鎌倉~大庭御厨と源頼朝~
講 師大澤 泉 氏(鎌倉歴史文化交流館 学芸員)
会 場玉縄学習センター・第4集会室
参加者67名(会員37名、一般30名)
内 容 講師は「鎌倉と言えば頼朝です。頼朝がなぜ鎌倉に幕府を開いたのか、その理由は鎌倉時代以前の鎌倉の姿を検討すれば、手がかりをつかめます」と述べました。講座の前半では、古代鎌倉を知る貴重な史料『天養記』を読み解き、大庭御厨と源義朝の関わりについて説明しました。後半では、発掘調査によって明らかになった古代鎌倉の姿(鎌倉地域の特性)を考察しました。
 『吾妻鏡』に書かれた頼朝入部以前の鎌倉の様子や鎌倉入部の理由、旧義朝館の訪問、大倉郷に邸宅造営、武士等への本領安堵・新恩給給与について触れました。本領安堵・新恩給については「武家政権成立の端緒の出来事が相模国府で行われた。国府が一国の行政の拠点として認識され、相応しい場とされていた事を反映している」と説明しました。また、吾妻鏡は鎌倉幕府公式の歴史を記した編纂物であり、一次史料ではないため、他の『天養記』等の史料と合わせて読み解く必要があることを付け加えました。
 大庭御厨への入部事件に関しては、伊勢神宮の所領であった相模国大庭御厨に相模国国衙在庁と源義朝郎従や田所目代等が二度にわたり入部した事件を伊勢神宮側が記述している原文を読み解きました。義朝が鎌倉に居住していたことが史料上明らかであり、義朝およびその郎従である三浦氏等は、国守・目代・在庁による知行体制から一定の独立性を持った集団であったと考えられます。
 講演後半では、鎌倉にあったラグーンや考古学的な研究成果、ラグーンの景観復原に関する研究等を紹介し、鎌倉地域の特性を詳しく説明しました。講師は、頼朝が鎌倉に幕府を開いた理由を『天養記』から読み解ける鎌倉・三浦地域の独立性、源氏四代が相模守を歴任し国衙の重要な機能である海上交通のルートを源氏が手に入れていたこと、源氏の拠点である鎌倉に郡衙(今小路西遺跡)が存在し、海上交通と路上交通の結節点となる機能を有していたことと見解をまとめました。
 「ほかにも諸説あります。勉強してください」と最後に激励の言葉で結びました。

大澤先生

講演会場の様子