2024年10月6日(日)、『鎌倉ガイド協会会員であり、当会会員でもある岡田 厚 先生』にお越しいただき、『極楽寺開山・忍性さんと職能集団』についてご講演いただきました。
ポイント
● 伊勢宗瑞(通称:北条早雲)はその勢力を相模に拡げると、三浦半島攻略と関東支配の拠点として『玉縄城』を築城したとされるが、山ノ内上杉方の『玉縄要害』を攻略した後に城郭化した可能性が大きい。
● 北条氏は郡・領といった地域ごとに支配の拠点となる城を整備し、現在の鎌倉・藤沢市域の大部分が属した相模国東郡と武蔵国久良岐郡は玉縄城が管轄した。この玉縄城に属した軍団が『玉縄衆』と言われる。
● 永禄2年(1559年)2月時点、玉縄衆は18人で構成されていた。
・相模東郡:5人(北条綱成、福嶋左衛門、川瀬、川上藤兵衛、花木隠居)
・相模西郡:2人(関新次郎、太田兵庫助)
・相模中郡:1人(神保孫三郎)
・相模三浦郡:3人(朝倉右馬助、愛洲兵部少輔、高尾)
・伊豆:1人(朝比奈孫太郎)
・武蔵久良岐郡:1人(間宮豊前守)
・小机領:2人(福嶋四郎右衛門、窪田又五郎)
・江戸地域:2人(行方与次郎、渋谷又三郎)
・武蔵松山領:1人(吉田勘解由)
※真鍋先生の著書『藤沢の戦国時代』藤沢市文書館 発行より
●玉縄衆の18人という数は、他地域の支城衆に比べ著しく少ない(伊豆衆などは29人)ものの、合計の知行高は全体の5番目であり、比較的知行の高い者が属していた。
●玉縄領の武蔵国久良岐郡は江戸湾を挟んで房総半島の里見氏と対峙する立地にあり、玉縄城には水軍を統轄する役目も存在し、玉縄衆には海賊も含まれていた(浦賀定海賊)。
●当時の江戸湾沿岸の村々は、北条・里見両氏に一定の貢納を行って両属関係を築くことにより辛うじて安定を確保していた状況であり、江戸湾における脅威は日常的に存在したため、玉縄城は北条氏にとって重要な役割を持った『水軍』を統括する役割を果たしていた。
講演後記
今まで玉縄城や玉縄城主に触れることは多かったものの、城や城主を支えた家臣団に話が及ぶ機会は少なかっが、真鍋先生の著書である『藤沢の戦国時代』には記載があったので、今回の講演で『玉縄衆』について取り上げていただいた。東は江戸近郊から西は伊豆まで家臣団の所領地が散らばっているのが玉縄衆の特徴であり、その中でも『水軍』が玉縄衆に属していたことは特筆すべきだろう。
真鍋先生が最後に仰っていた「玉縄城と相模湾の関係に大きな役割を果たしていた存在が柏尾川だ」というお話は非常に印象的であり、勇ましい兵団を乗せた船が玉縄城下の柏尾川を漕ぎ出していく様子が目に浮かんでくる。