令和7年(2025年)2月2日(日)、当会の講演ではお馴染みの『歴史研究家・鎌倉考古学研究所 理事の伊藤 一美 先生』にお越しいただき、『縁で結ばれる平安時代人の生きざま』についてご講演いただきました。
ポイント
清原致信殺害事件の背景と詳細
● 事件の発生と調査
・寛仁元年(1017年)3月8日、六角小路と冨野小路の交差点付近で清原致信(清少納言の兄)が源頼親の従者によって殺害される。
・藤原道長の息子で検非違使別当の藤原頼宗が調査し、『御堂関白記』にこの事件の詳細が記録された。
・日記の内容から、事件の実行者が源頼親の従者であることが確認され、頼親は『殺しの名人』として恐れられる存在だった。
● 関係者と背景
・清原致信:平安時代の中級貴族で、清少納言の兄。歌詠み一族の出身で、大宰府の『太宰少監』を歴任した役人でもあり、『御撰和歌集』の編纂者・清原元輔の息子。
・源頼親:清和源氏・源満仲の次男。信濃守・大和守を歴任し、興福寺との対立や政治的不和の原因で流罪に遭うことも多かった。『大和源氏』の祖とされる。
・藤原保昌:清原致信の主人で、平安時代を代表する勇士かつ歌人。摂津守や肥前守を歴任し、その家系には武勇と文学両面の名声が受け継がれている。
● 事件の背景
・事件の舞台となった六角小路と冨野小路は、当時の京都市内でも屈指の重要地。貴族社会における政治的かつ個人的争いが事件の背景にあったとされる。
・この事件は、平安時代の治安機構である検非違使の活動を象徴し、特に治安維持の複雑さを示している。
和泉式部と清少納言の間接的なつながり
● 和泉式部の活躍
・藤原道長の息子である藤原頼通が主催した正月の『大饗』に使用される屏風絵の詩歌選定に、和泉式部(藤原保昌の妻)が参加。その和歌が選定され、屏風絵の一部として用いられることとなった。
・和泉式部の夫である藤原保昌が、清原致信の主人であったことから、清少納言と和泉式部が間接的に繋がっていることが読み取れる。
● 保昌一門の文学的・武勇的特質
・和泉式部の夫である藤原保昌は、多くの文学作品に登場する重要人物。その家系は武勇と文学の両方で高い評価を受けた。
・この一門の文学的活動が、平安時代の宮廷文化に深い影響を与えていたことがわかる。
清少納言の晩年と説話的描写
● 零落後の生活
・清少納言の老後は説話に詳しく描かれており、『古事談』や『無名草子』では彼女が零落した姿が語られている。
・朽ち果てたボロボロの屋敷に住む清少納言が、過去の栄光を振り返りながら孤独と困窮の中で生きる様子が哀感を誘う。
● 説話の発展
・鎌倉時代には、兄・清原致信の殺害現場に清少納言が居合わせたとの伝説が語られる。
・男装していた清少納言が、命を守るため「自分が女性である」ことを証明した行為が物語として追加されている。
紫式部と皇太后・藤原彰子
● 紫式部の宮廷での役割
・紫式部は、藤原道長の娘で後一条天皇の母である皇太后・藤原彰子に仕える女房だった。
・『小右記』には彼女が彰子と藤原実資の間で取次役を務める様子が度々記されており、その忠誠心と信頼が窺える。
● 取次役としての活動
・実資が物忌みにより行啓を欠席する際、紫式部が彰子の意向を彼に伝えた。また、政治的な行動の橋渡し役として重要な役割を果たしていた。
・『小右記』の中で、紫式部が彰子に代わり、実資への重要な指示や宮廷での状況を伝える記述が多数残されている。
・これらの記述から、紫式部が宮廷内で欠かせない存在であったことが明らかである。
紫式部と藤原道長の関係性
● 道長とのやり取り
・紫式部の日記には、道長との和歌のやり取りが記録されており、一部では道長の妾であったとの説が存在するが、この説に確証はなく、史実として裏付けられているわけではない。
講演後記
伊藤先生には、当会では『鎌倉幕府』『玉縄城』『後北条』『江ノ島信仰』などをテーマにご講演いただくことが多いので、「今回は平安時代人の生きざまを取り上げる」とお聞きした際は、とても意外な印象だった。しかし、「元々古代史を専攻されていた」と冒頭に先生からお話があったことで、「なるほど」と思ったのは私だけではなかったはずだ。
大河ドラマ『光る君へ』が放送終了した後であり、紫式部・清少納言・藤原道長といった人物同士の関係性を振り返る上でも大変貴重な機会を得たと思う。伊藤先生、このような素晴らしいご講演をありがとうございました。
![]() 黒板を多用した説明が伊藤先生ならでは | 講演終了後、伊藤先生を中心に記念撮影 |