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令和6年(2024年)10月公開講座『極楽寺開山・忍性さんと職能集団』のレポートを掲載

 令和6年(2024年)10月6日(日)、『鎌倉ガイド協会会員であり、当会会員でもある岡田 厚 先生』にお越しいただき、『極楽寺開山・忍性さんと職能集団』についてご講演いただきました。

ポイント

忍性の生涯

建保5(1217)年:0歳現在の奈良県磯城郡三宅町屏風に誕生。父は伴貞行、母は榎氏。
貞永元(1230)年:16歳母死去、菩提弔うため額安寺に80日間籠り、その後出家。
天福元(1233)年:17歳東大寺戒壇院にて受戒する。
延応元(1239)年:23歳永久に断淫、断酒を誓う。叡尊より十重戒を授かり、西大寺律僧(叡尊弟子)となる。
建長4(1252)年:36歳律の教えを広めるために関東へ下向。
鎌倉到着。その後、鹿島社に詣で、常陸国三村に至る。
三村寺院主、忍性に帰依して律院を作る。
弘長元(1261)年:45歳北条重時の葬儀を行う。
請われて鎌倉に入り、釈迦堂(扇ケ谷の新清凉寺釈迦堂か?)に住す。
弘長2(1262)年:46歳鎌倉滞在中の叡尊の許へ。浜悲田と大仏悲田で病人・孤児に施食と授戒。
文永4(1267)年:51歳極楽寺開山に迎えられる。
文永5(1268)年:52歳極楽寺に釈迦十大弟子造立。極楽寺に新宮社(熊野速玉神)草創。
文永8(1271)年:55歳大旱があり、日蓮と祈雨の験を争う。浄光明寺、多宝寺ら僧数百人と祈雨。
弘安7(1284)年:68歳二階堂永福寺・五大堂明王院及び大仏の別当に補任される。
弘安10(1287)年:71歳鎌倉桑ヶ谷に療養所を設ける。親疎選ばず病者集め、病人の訴えを聞く。
正応3(1290)年:74歳叡尊、遷化する。忍性、鎌倉で訃報に接し、駿河霊山寺成真を遣わす。
永仁6(1298)年:82歳坂の下に馬病屋を建て、厩で仏名を唱え、馬首に真言札を結ぶ。
嘉元元(1303)年:87歳7月12日、極楽寺にて入滅。極楽寺西畔で火葬。
遺骨は遺命により、極楽寺・額安寺・竹林寺の3ヶ所に分骨埋葬。
嘉暦3(1328)年後醍醐天皇より忍性菩薩号が下賜。

 忍性はその生涯を人々の救済活動に捧げ、貧民や病人のために、施薬院・悲田院・癩宿・療病院・薬湯室・馬病舎・療養所などを設立した。桑ヶ谷療養所では20年間で約6万人を収容し、約4.6万人が治癒したという。
 また、忍性は83ヶ所の寺院造営、154ヶ所のお堂供養、189橋の架橋、71ヶ所の道路修繕、33ヶ所の井戸掘削を行い、5ヶ所の湯屋や療養所を開設。その他、33,000着の衣服を病人・貧者に配り、数知れないほど多くの祈祷を行った。
 和賀江島では港湾の維持・管理・修繕に貢献し、前浜(由比ヶ浜)では殺生禁断権を持ち、徴収された米や金品は土木事業や慈善救済事業に充てられた。

極楽寺について

 霊鷲山感応院極楽寺は正元元年(1259年)に北条重時(北条義時の三男)によって創建され、忍性が開山。この寺院には、木造清凉寺式釈迦如来立像、本尊脇侍木造十大弟子、木造不動明王像、木造文殊菩薩像などの貴重な仏像がある。更に、極楽寺には忍性の活動と関連する石工を中心とする様々な職能集団(鋳物師、仏師、僧医、番匠、瓦職人等)などとの繋がりが考えられる。

石工を中心(他:鋳物師・僧医)とする職能集団

 忍性の活動に関わる地域には多くの貴重な石造物が残っている。鎌倉入りする前の10年間止宿していた常陸の三村山清冷院極楽寺(三村寺)には、山頂に宝篋印塔、山麓には忍性の後を託された頼玄の五輪塔、不殺生界碑が、般若寺には鎌倉大仏鋳造に参加した丹治久友の梵鐘と叡尊の弟子源海和尚の五輪塔や結界石がある。これらの寺院を建立するのに必要な優れた石工、鋳物師、番匠等、必要な職能集団を西大寺律宗のネットワークで動員した。
 金沢称名寺でも北条実時の依頼で忍性は審海を住持に推薦した。称名寺にも大蔵派の石工による数多くの石造物(宝篋印塔、五輪塔)が建立された。また箱根の精進池周辺の摩崖仏、二十五菩薩(二十四躯の地蔵、一躯の阿弥陀)や石塔、そして駿河霊山寺の五輪塔や宝篋印塔も忍性率いる職能集団の中の大蔵派の石工たちによるものである。
 これらの石造物群は、中世期の海岸沿いの境界領域に分布する鎌倉の寺々や金沢の称名寺、箱根の精進池周辺などに散在し、西大寺系律宗の力強い影響を物語っている。

鎌倉の前浜の西東に位置する石造物と西大寺流律宗の痕跡

 中世期の海岸沿いの東西の境界領域に位置する寺院には、数多くの貴重な石造物が存在している。西の極楽寺には忍性墓、石製の千服茶臼、製薬鉢があり、これらは忍性が医療施設を設け、社会救済事業に尽力したことを示している。また、梶原性全という律僧医が編纂した『頓医抄』や『万安方』があり、ハンセン病の症状、治療に関する詳細な記述がなされ、忍性の影響を受けたと言われている。
 極楽寺文殊菩薩坐像は善慶作の転法輪印の釈迦如来坐像と通じ善派系統の仏師が造立した。また、光明寺境内にある地蔵菩薩坐像の正中2年(1325年)の光背の銘から、境内にあったとされる極楽寺末寺万福寺と和賀江島の対岸の極楽寺支院仏法寺は和賀江島の修築、維持管理の権限と関わっていたと考えられる。このように和賀江島及び鎌倉の海岸部は極楽寺の全面的管理下にあった。また、長谷寺の十一面観音像や本尊の胎内銘札にも西大寺流律宗との関連が見られる。
 その他にも、西大寺系の大蔵派石工集団が関与した石造物が多数確認されている。長谷寺の徳治3(1308)年銘の宝篋印塔陽刻板碑は大蔵派大工沙弥信阿の銘が彫られ、安養院には同一人物と推測される沙弥心阿の宝篋印塔がある。またこの安養院宝篋印塔の反花座の蓮弁や格狭間の形状は極楽寺忍性五輪塔と酷似し、心阿が創出したものとされる。同じく弘長2年(1262年)の長谷寺板碑と同年の廃寺感応寺にあったとされる五所神社と光明寺で一対の板碑からも西大寺流律宗との関連が見られる。また、鎌倉幕府は大仏殿の礎石(安山岩)を加工する石材加工技術を持つ石工を率いる西大寺流律宗の動員力に目を付けた可能性が大きい。金銅仏の造立に際しては西大寺教団の関与があり、鋳物師をはじめとする機内の技術者を叡尊・忍性が布教して関東に誘った結果であると指摘される。 
 忍性が引き連れてきた職能集団には様々な職能民が考えられるが、銘を残している石工(大蔵派)以外の職能民については明確な資料が少なく、まだ未分野の研究領域である。

講演後記

 冒頭、岡田先生がなぜ忍性に感銘を受け、以後その足跡(奈良・常陸の訪問)を訪ねたのか、その話から講演は始まった。戦後も続いたハンセン病(癩病)患者への差別と隔離は、時代を遡ること鎌倉時代にも存在していたが、忍性はハンセン病が酷くなって物乞いする場へ行けない人を朝に背負って奈良の市へ連れて行き、夕方には奈良坂に連れ帰った。また、自ら風呂で癩患者の垢すりを行い、生々しい傷口の治療を行っていた。このような『慈悲二過ギタ人』『鎌倉時代のマザー・テレサ』と言われた忍性の行動に感銘を受けたことから、とのこと。
 講演資料は、先生自らが歩き撮影された写真を中心に構成され、そのボリュームはパワーポイント100ページを超えるものだった。特に、忍性とその師の叡尊で知られる西大寺流律宗と共に鎌倉に来た、職能集団の石工が造り出した大型石造物は鎌倉のあちこちで見ることができ、忍性の所縁ある各地にも数多く残っていることを知ることができた。
 本講演は、後日の極楽寺近辺における史跡散策の前座学にも位置付けられていたので、合わせて参加することにより忍性と職能集団の足跡と取り組みを一層のこと理解できたと思う。


忍性への思いを語る岡田先生

講演会場の様子
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