玉縄城は玉縄の城。鎌倉・大船・玉縄、玉縄歴史の会。

令和6年(2024年)5月公開講座『永禄四年の長尾景虎の関東侵攻と相模国』のレポートを掲載

 令和6年(2024年)5月5日(日)、当会の講演ではお馴染みの『青山学院大学 非常勤講師・真鍋 淳哉 先生』にお越しいただき、『永禄四年の長尾景虎の関東侵攻と相模国』についてご講演いただきました。

ポイント

長尾景虎、関東へ侵攻
 天文7年(1538年)、第1次国府台合戦で勝利した北条氏綱は関東管領職を得て、古河公方の保護者となり、地位を確立。氏綱嫡男・氏康は家督を継ぎ、河越合戦で山内上杉憲政を破って関東の支配を拡げた。憲政は越後に逃れ、長尾景虎に助けを求める。永禄2年(1559年)には景虎が上洛し、足利義輝の要請で憲政の関東復帰のために北条氏討伐を計画


長尾景虎による小田原城攻撃
 永禄2年、北条氏が上総久留里城を包囲し、里見氏は長尾景虎に救援を要請。永禄3年、景虎は関東に出陣し、上野や武蔵の諸城を次々と攻略。北条氏康は迎撃を試みるも失敗し、多くの武将が景虎に追従した。氏康は今川氏や武田氏に援軍を要請するも、景虎は援軍到着前に小田原城攻撃を開始。景虎の小田原付近への在陣は10日ほどで、城下への放火程度で大きな戦はなかった。その後、小田原付近を撤退し、鎌倉へ移動(ついに景虎が玉縄城下にも進軍してきたか?)


上杉政虎の関東管領職就任と関東からの帰陣
 長尾景虎は小田原から撤退し、鎌倉で鶴岡八幡宮に参詣。上杉憲政から関東管領職と山内上杉氏の家督を譲られ、『上杉政虎』と改名した。政虎は足利晴氏の嫡子藤氏を古河公方に擁立するなど、関東支配を巡って北条氏との抗争が激化。4月には武蔵松山城を攻略し、6月下旬に越後へ帰国。10ヵ月におよぶ関東遠征を終えたが、北条氏の主要城は落城しなかった。


関東侵攻の影響とその後の情勢
 北条方は長尾景虎の来襲後、小田原城の普請を繰り返し、大規模な縄張りに発展させるとともに、上杉政虎の帰国後、反撃を展開して関東の勢力を回復していった。永禄9年頃には関東の多くの国衆(武蔵・東上野・下総)が北条氏に従う。上杉謙信は永禄3年以来『越山』を繰り返すものの、永禄11年以降は行わず。謙信による関東支配は大きく頓挫し、北条氏の優勢が決定的な状況となった。

侵攻の相模国への影響①
 永禄4年の長尾景虎の関東侵攻に伴い、里見氏も鎌倉近辺に侵攻し、腰越浦で合戦が発生(対岸の江の島にも影響が及んだ可能性大)。この時期に発給された禁制・制札が複数存在し、特に3月9日の里見義弘制札は里見勢が鎌倉を一時的に占拠した可能性を示唆。北条氏も同時期に制札を発給し、長尾勢に対する対策を講じた。

侵攻の相模国への影響②
 藤沢も被害を受けた可能性あり。復興のために塩合物や酒の製造・販売が開始。また、従来の京・鎌倉往還に加え、新たなルートの開発には玉縄城の影響が大きく、藤沢の重要性が増大した。藤沢は交通の要所として発展し、北条氏に奉公する職人たちと共に商業が展開されるなど、景虎の相模侵攻が藤沢の発展に影響を与えた可能性が高い。

講演後記

 長尾景虎の小田原城攻撃については、大河ドラマや歴史小説など何度も描かれてきた。景虎が鎌倉・鶴岡八幡宮を参拝したと言うことは、小田原から鎌倉への途中で小田原の支城を抑えると考えられ、玉縄城にも長尾勢が攻め寄せたと思えるが、その描写を目にしたことはない。真鍋先生もそのあたりには詳しく触れていなかった。玉縄城下に着陣した景虎は、長尾氏発祥の地とされる長尾の地の砦から、景虎は祖先が見ていたのと同じ風景を目に焼き付けたかもしれない


ベイスターズの話題から開始した真鍋先生
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次